夏目漱石「小説『エイルヰン』の批評」

英国の小説を読んで第一に驚かされるのは、非常に長たらしいと云ふ事である。無論短いのもあるが、十八世紀より今世紀へかけて出版になつた大部分の小説は皆冗漫なものだ。少くとも無用の篇を省いて、此半分につゞめたら善(よか)ろと思ふ位である。尤も前方は三巻小説と云つて、小説は必ず三巻で出版するものと書肆も読者も予想して居つたのだから、穴勝(あながち)著者を責むる訳には行かないが、其弊は単に興味を殺(そ)ぐに過ぎない。十のものを一から十迄書くのは明瞭に違ないが、云はゞ教科書的である。自然の勢として趣味に乏しくなる。著作を翫味せしむると云ふ以上は、十の中を八分通(どおり)叙して、残る二分を読者が想像力を用うる余地として存して置かねばならぬ。小学校の児童ですら己の脳力を用いて問題を解決する事を喜ぶ。詩歌美文を手にする、少しでも想像力のある者は読誦の際此力を使用するが為め、一層の興味を感ずるに違ない。現に修辞学で擬人法比喩法其他一切の手品を発明したのは、皆読者の想像力を働かしむる道具に過ぎない。就中(なかんずく)叙述の際幾分の空間を割(さい)て読者の情解に一任するのは、作詩作歌に必要なる方法である。従つて詩は散文よりも短い。「ミルトン」の失楽園抔は随分長いには相違ないが、之を散文に直したら、少なくとも二三倍長いものになるだらう。故に散文を詩化するには、無用の叙事を省かねばならぬ。有用の叙事も読者の想像力に訴へて解釈し得ると思惟する限は省かねばならぬ。