ボードレール「ああ既に!」(抄) (三好達治 訳)

 ただ一人、私だけは悲しかった。人々とは反対に悲しかった。神性を奪いとられる司祭のように、私はこの海から、断腸の思いなしに別れることが出来なかったのである。かくも悪魔のように魅力のある、恐ろしきまでの単純さに於てかくも無限に変化のある、この海から、嘗て生きし、現に生ける、はた将来も生きるであろうすべての魂の、不平と苦悩と歓喜とを裡に蔵して、たまたま彼女の嬉戯により、歩容により、憤怒とそして微笑により、それらを悉く表現するかの観のある、この海から!
 この比類なき美に訣別を告げるに当って、私は死ぬほど心のうちのめされるのを覚えた。そのために私の同船者たちが、誰も彼も「ああやっと!」と云う時に、私だけはただ「ああ既に!」としか叫ぶことが出来なかった。
 しかしながら、それは諸々の音響と、情熱と、快適と、祝祭とを伴う陸地であった。それは富み且つ栄えた、約束に満ちた、薔薇と麝香との神秘な芳香を我らに送ってくるところの、そこから生命の音楽が、恋愛の囁きとなって我らに聞えてくるところの陸地であった。