谷川俊太郎「恋の始まり」(全)

あなたのことを絶えず考えているのに
あなたの顔がどうしても思い出せない
気がついてみるとふと耳にした音楽の一節を
くり返しくり返し口ずさんでいるのだ
あなたに会いたいと思うのだが
それは情熱というよりむしろ好奇心で
自分がいったいどうなっているのか
もういちどあなたの前でたしかめたいのだ
それから先のことは思い浮ばない
あなたを抱くことも想像できない
ただあなた以外の世界がひどくけだるく
僕は高速度撮影の映画の中の俳優のように
ゆっくり煙草に火をつけるのだ
するとあなたなしで生きていることが
ひとつの快楽のようにも思えてくる
あなたはもしかするといつか僕が他国で見た
時をへた美しい彫像のひとつかもしれない
そのかたわらで噴水は高く陽に輝いていた