ミハイル・バフチン『フランソワ・ラブレーの作品と中世・ルネッサンスの民衆文化』(川端香男里 訳)

 ここにおいて、糞のイメージの両面的価値、再生と改新とのつながり、恐怖の克服における主導的役割、こういうものが明かとなった。糞は陽気な物質である。最も古い糞尿譚(スカトロジー)的イメージにおいては、前にも述べたが、糞は生殖力、肥沃とつながりを持っている。他方において、糞は大地と身体の何か中間にあって、両者を親近関係に置くものと考えられている。糞はまた生きた肉体と死んだ肉体の何か中間にあるものでもある。肉体は死ぬと分解し土に姿を変え大地に帰り、肥料となるのである。肉体は生きている時は大地に糞を与える。糞は死人の肉体と同じように土地を肥沃にする。これらの意味の持つ陰影(ニュアンス)をラブレーはまだ明確に感じとり意識していたのである。これは先に行ってから検討することであるが、これはラブレーの医学的見解と無縁ではなかったのである。さらにグロテスク・リアリズムを継承する芸術家であるラブレーにとっては、糞は陽気な、酔いざましの物質であり、格下げと親しみを同時に持っている。これはその最も軽やかな、恐れを知らぬ、滑稽な形式の中に、墓場と出生とを総合しているのである。
 それゆえ、ラブレーのスカトロジー的イメージには少しも粗野でシニカルなものはないし、またあり得ない。(他の同様のグロテスク・リアリズムと同じように。)糞を投げつけ、尿を浴びせ、古い死に行く(と同時に生み出す)世界に糞尿譚(スカトロジー)的罵言を雨あられのように浴びせること――これは古い世界の陽気な埋葬であり、愛情のこもった土の塊りを墓に投げてやる行為や、播種――畑の溝(大地の胎)に種を投げる行為とまったく同様の(ただし笑いの次元における)ものなのである。陰うつな、肉体のない中世的真実に対し、これは真実の陽気な肉体化であり、滑稽な地上化である。
 ラブレーの小説にはきわめて多いスカトロジー的イメージの分析においては、これらすべてのことを決して忘れてはならない。