蓮實重彦『小説から遠く離れて』

小説とは、いわば文学的な私生児なのだ。誰かに捨てられたから孤児たる宿命を引きうけるのではなく、「完璧な捨子」として無根拠に出現したものに、人は小説という名称を与えたということなのだ。ここでは文芸ジャンルとしての小説論を展開するつもりはないが、ギリシャ以来の西欧的な美学の伝統にあっての正統的系譜を欠いた私生児として、戯曲や詩に対する出自のいかがわしさを誇っているという意味で、近代的な小説は「完璧な捨子」なのである。同時に、人類の発生とともに存在する諸々の物語とも血縁関係を持っていないが故に、捨子たるほかはないという意味で、そこに二重の私生児性がまといついているという事実を改めて強調しておこう。古代ギリシャに模倣すべきモデルを持たない小説は、父親を殺害することもなく捨子となりえた例外的なジャンルなのであり、『枯木灘』の秋幸の無謀な衝動も、そのことと無関係ではない。彼がそうありたいと願っている「完璧な捨子」とは、小説という身分のいかがわしさに自分をなぞらえることでしか実現しがたいものなのだ。物語がその登場人物に保証する相対的な安定性を放棄すること、それが小説家にとっての最初の振舞いであり最後の振舞いでもなければならぬのは、物語というものが、いつでも血統の保証に貢献してしまうからにほかならない。