須賀敦子『遠い朝の本たち』

「ジャックと私は、夜おそくまでサティの音楽について語りあった」
 坂を降りながら、ジャンが盗み読みしたクレールの手帳の一節を、私は自分のなかで繰り返していた。あの本を友人たちと読んだころ、サティという音楽家がいたことも、もちろん、彼の作品についても、そしてなによりも、人生がこれほど多くの翳りと、そして、それとおなじぐらいゆたかな光に満ちていることも、私たちは想像もしていなかった。