吉野弘「奈々子に」(全)

赤い林檎の頰(ほお)をして
眠っている 奈々子。


お前のお母さんの頰の赤さは
そっくり
奈々子の頰にいってしまって
ひところのお母さんの
つややかな頰は少し青ざめた
お父さんにも ちょっと
酸っぱい思いがふえた。


唐突だが
奈々子
お父さんは お前に
多くを期待しないだろう。
ひとが
ほかからの期待に応えようとして
どんなに
自分を駄目にしてしまうか
お父さんは はっきり
知ってしまったから。


お父さんが
お前にあげたいものは
健康と
自分を愛する心だ。


ひとが
ひとでなくなるのは
自分を愛することをやめるときだ。


自分を愛することをやめるとき
ひとは
他人を愛することをやめ
世界を見失ってしまう。


自分があるとき
他人があり
世界がある。


お父さんにも
お母さんにも
酸っぱい苦労がふえた。


苦労は
今は
お前にあげられない。


お前にあげたいものは
香りのよい健康と
かちとるにむずかしく
はぐくむにむずかしい
自分を愛する心だ。