橋本治『花咲く乙女たちのキンピラゴボウ』(「ハッピィエンドの女王――大島弓子論」)

〝愛〟とはまず、自分によって自分を認めることです。
 人が何故〝愛〟を知ることが出来るのかといえば、自分を認め、理解し、受け入れたいからなのです。だから人は、〝愛〟を確信することが出来るのです。
〝愛〟とは、受け入れることなのです。


 人は自分を受け入れます。自分のすべてを自分として受け入れます。受け入れる自分、受け入れられる自分、それが一つになる時、その二つの自分の間にあるものが〝愛〟なのです。
 人は自分を受け入れて自分になります。自分に受け入れられて、人は自分になるのです。だから人は〝愛〟を分るのです。
 すべての人は、すべての人になります。すべての自分は、すべての自分になるのです。だからこそ人は、すべての他人がすべての他人になることも分り、すべての他人を愛することが出来るのです。
 愛することは受け入れることです。愛することは分ることです。
 もしあなたが分らなければ、まず受け入れなさい。そして分ればよいのです。
 もしあなたに受け入れることができないのなら、まず分りなさい。そして受け入れればよいのです。
 愛することは愛されることです。人に身を委ねることが出来ることです。何故ならば、すべての他人は人間だからです。


人は、自分になる為生きて来ます。子供の前にある時間は、自分を知る為の時間です。人は自分に為るために、自分を知らなければならないのです。子供の前にある時間は、自分になる為の時間です。自分を知ったところで、自分になる力がなければ、人は自分になることが出来ないからです。
 子供には、何も出来ません。子供には何も知ることが出来ません。子供に出来ることはただ感じることだけです。そして、その感じることが〝意識〟なのです。
 自分には何も出来ないと知った時、自分は何も知らないと分った時、幸福な子供の時間は終わります。子供の前にあるのは、大人になる為の時間、自分になる為の時間なのです。
 その時間は、一本の直線ではありません。子供からどんどんどんどん離れて行く一本の時間の道はグルッとラセンのように一廻りして、又元の所に戻ります。そして人は、猫になるのです。一匹の小さな猫に。
 あなたはもう、猫でしょうか? あなたはまだ大人でしょうか? それともあなたは、まだ人間の子供でしょうか?