2011-09-25から1日間の記事一覧

阿部嘉昭『北野武VSビートたけし』

しかしよく考えてみれば、露わな肉体はTV的現代にあっては常に忌避の対象だった。つまり肉体の実在感が顕著な映画は、TV的感性が多くの観客を支配する現代においては、嫌悪の対象となるのである。

阿部嘉昭『北野武VSビートたけし』

蓮實「『あの夏、いちばん』の場合は自分で編集なさったわけでしょう。他人には任せられないっていうことですか」 北野武「そうですね。要するにあの映画、日本人の能の間だと思っているから、映画を撮っているときに見てるのは自分だし、わりかし自分の心臓…

阿部嘉昭『北野武VSビートたけし』

ノスタルジア自体、タルコフスキーによって映画的にも明らかにされたように、それは世界とは何ら有機的関わりをもてぬ人間が極度の断片として犬死する際の否定的要因にしかならない。ノスタルジアとは現代の人間がもっとも確実に死に至るための内在的劇薬で…

阿部嘉昭『北野武VSビートたけし』

巨大な同一性の場となるTVの中にはがんらい他者は存在しない(ニュース画面における犯罪者や、悪意をもって眺められたタレント、俳優のみが例外的に他者性を獲得する)。

阿部嘉昭『北野武VSビートたけし』

TVはTVを自己言及する――それしかしないというTV的問題の所在が明確化されるだろう。TVは常に自らがTVであることを語っている。TVは質問し、同時に自らの質問が質問であることによって回答する。あるいは回答し、同時に自らの回答が回答であることによって質…