2015-12-12から1日間の記事一覧

谷川俊太郎「泣く」

彼女には泣くべき理由があった 彼女には泣くべき理由が沢山あった そして誰もそれを理解しなかった だから彼女は泣いた 黒い裏皮の手袋の 右の手で右のまぶたを押さえ 左の手で左のまぶたを押さえて 涙は次から次へと丸い滴になって 唇のところでとまって そ…

クロード・シモン『アカシア』(平岡篤頼 訳)

ある古書店で、彼は赤褐色のモロッコ革で装丁した、十五巻だか二十巻の『人間喜劇』を買い、喜びもなく、一冊また一冊と、ただの一巻も飛ばさずに、風が音立てて屋根をこすりどこかで鎧戸をばたばたさせるのを聞きながら、辛抱づよく読んでいった。数少ない…

クロード・シモン『アカシア』(平岡篤頼 訳)

彼が知っている二軒は(いまは彼には、時々そこへ行ったのも彼の生涯のファンタスチックなくらい遠い昔――というかむしろべつの人生、いわば先の世の人生だったような気がし、なにか(場所も――当然おなじ場所だし――人間も――やはりおなじ人間たちだったが、そ…

クロード・シモン『アカシア』(平岡篤頼 訳)

ふたりの姉妹、このふたりの女は何歳も年下の弟のいわば母親役をつとめたのだったが、どんな男も触ったことのない彼女たちの乳房から乳を与えたというのではなくて、言うなれば彼女たち自身の肉(というかむしろ彼女たちの肉の欲望の拒否)で彼を養ったので…