クロード・シモン『アカシア』(平岡篤頼 訳)

ある古書店で、彼は赤褐色のモロッコ革で装丁した、十五巻だか二十巻の『人間喜劇』を買い、喜びもなく、一冊また一冊と、ただの一巻も飛ばさずに、風が音立てて屋根をこすりどこかで鎧戸をばたばたさせるのを聞きながら、辛抱づよく読んでいった。数少ない親戚をのぞけば、彼はこの町では、間断なく酔っぱらっていて、おなじ果樹園の花盛りの桃の木を果てしもなく繰り返し描いている老画家しか知り合いがなく、その家で、彼とおなじようにここへ流れ着いた何人かの人と出会った。だんだんと、彼は変わっていった。彼はふたたび新聞を読みはじめ、それにのっている地図や、戦闘が依然としてつづいている町とか、海岸とか砂漠とかの名前を眺めた。ある夜彼は一枚の白紙を前にテーブルに向かった。いまは春だった。部屋の窓はほの温かい夜の闇に向かって開いていた。庭に生えている大きなアカシアの木の枝の一本がほとんど壁に触れていて、電燈に照らしだされたいちばん近くの梢が彼にも見え、ペン先に似たかたちの葉が闇を背景にかすかにひくつき、楕円形をした小葉が電燈の明かりでどぎつい緑に色づいて、時折冠毛みたいに動き、まるでそれ自身の力にうながされているみたいで、まるで木全体が目覚め、武者ぶるいし、気合をいれるみたいで、それからすべてが鎮まり、葉群ももとの不動の姿を取りもどすのだった。