谷川俊太郎「泣く」

彼女には泣くべき理由があった
彼女には泣くべき理由が沢山あった
そして誰もそれを理解しなかった
だから彼女は泣いた
黒い裏皮の手袋の
右の手で右のまぶたを押さえ
左の手で左のまぶたを押さえて
涙は次から次へと丸い滴になって
唇のところでとまって
それは少し塩辛かった
外では雨が降っていた
それは涙とは似ても似つかなかった
雨には理由がなかったから
角の花屋ではチューリップが生々としていて
花屋の小さな男の子は裸足ではしゃいでいた
だから彼女は泣いた
彼女はもう大人で裸足にはなれなかったので
彼女には泣くべき理由が沢山あった
それは一々口では云えない
彼女にもよく解らないことだってあったので
だから彼女は泣いた
去年の今頃はこんなじゃなかった
この長靴だって水はもらなかった
だから彼女は泣いた
それから静かに立ち上り
軋む硝子戸を押して外へ出た
舗道は濡れていて
どこまでも続いていた
遠くで橙色の信号灯が
病気の太陽のように明滅していた
これというのもみんな
あの愛というもののせいなのだ
その愛は彼女をさいなみ
彼女の乳房の尖(さき)をかたくした
だから彼女は泣いた
泣きながら歩いた
夜がもう行手(ゆくて)一杯にふさがっていて
彼女はこわかった
だが誰も彼女を助けられない
僕も君も彼女自身も
だから彼女は泣いた