チェーホフ『ワーニャ伯父さん』(神西清 訳)

アーストロフ 人間というものは、何もかも美しくなくてはいけません。顔も、衣裳も、心も、考えも。なるほどあの人は美人だ、それに異存はありません。けれど……じつのところあの人は、ただ食べて、寝て、散歩をして、あのきれいな顔でわれわれみんなを、のぼせあがらせる――それだけのことじゃありませんか。あの人には何ひとつ、しなければならない仕事がない。あべこべに、人の世話にばかりなっているんです。……そうでしょう? しかし、無為安逸な生活は、清らかな生活とは言えません。(間)もっとも私の見方は、すこしきびしすぎるかもしれない。私も、お宅のワーニャ伯父さんと同様、生活に不満なのです。それで二人とも、だんだん愚痴っぽくなってくるんですよ。
ソーニャ そんなに生活にご不満?
アーストロフ そりゃ一般的に言えば、私も生活が好きです。けれどわれわれの生活、この田舎の、ロシアの、俗臭ふんぷんたる生活は、とても我慢がならないし、心底から軽蔑せざるを得ませんね。そこで、じゃお前自身の生活はどうなんだ、と言われると、正直の話、なんともかとも、何ひとつ取柄はないですねえ。ねえ、そうでしょう、まっくらな夜、森の中を歩いてゆく人が、遥か彼方に一点のともしびの瞬くのを見たら、どうでしょう。もう疲れも、暗さも、顔を引っかく小枝のとげも、すっかり忘れてしまうでしょう。……私は働いている――これはご存じのとおりです。この郡内で、私ほど働く男は一人だってないでしょう。運命の鞭が、小止(おや)みもなしに私の身にふりかかって、時にはもう、ほとほと我慢のならぬほど、つらい時もあります。だのに私には、遥か彼方で瞬いてくれる燈火(ともしび)がないのです。私は今ではもう、何ひとつ期待する気持もないし、人間を愛そうとも思いません。……もうずっと前から、誰ひとりとして好きな人もないのです。
ソーニャ 誰ひとり?
アーストロフ ええ、誰ひとり。ただ、ある種の親しみを、お宅のばあやさんには感じています――昔なじみとしてね。ところが百姓連中ときたら、じつに単調で、無知蒙昧で、不潔きわまる暮しをしているし、インテリ連中はどうかというと、これまた、どうも反りが合わない。頭が痛くなるんですよ。つきあい仲間のインテリ連中は、誰も彼も、料簡は狭いし、感じ方は浅いし、目さきのことしか何も見えない――つまり、どだいもうばかなんです。一方、少しは利口で骨のある手合いは、ヒステリーで、分析きちがいで、反省反省で骨身をけずられています。……そうした手合いは、愚痴をこぼす、人間嫌いを標榜する、病的なほど人の悪口(あっこう)をいう、人に近づくにも横合いから寄っていって、じろりと横目で睨んで「ああ、こいつは気ちがいだよ」とか、「こいつは法螺吹きだよ」とか決めてしまう。相手の額に、どんなレッテルを貼っていいかわからなくなると、「こいつは妙なやつだ」と言う。私が森が好きならこれも変てこ。私が肉を食べないと、これもやっぱり変てこ。いや、今日(こんにち)ではもう、自然や人間に向って、じかに、純粋に、自由に接しようとする態度なんか、薬にしたくもありはしません。……あるものですか!(飲もうとする)