チェーホフ『ワーニャ伯父さん』(神西清 訳)

エレーナ ねえ、ワーニャさん、あなたは教育のある、頭のできたかたですから、おわかりのはずだと思いますけど、この世の中を滅ぼすのは、強盗でも火事でもなくって、むしろ怨みだとか憎しみだとか、そういったごくつまらないいざこざなのですわ。……ですからあなたも、不平ばかり仰しゃらずに、みんなを仲直りさせる役にお回りになるといいわ。
ワーニャ じゃ、まず第一に、この僕を僕自身と仲直りさせてください。ああ、エレーナさん……(彼女の手に唇を当てようとする)
エレーナ いけません! (手を振りはなす)あちらへいらしって!
ワーニャ もうじき雨もあがるでしょう。そして草も木もあらゆるものが生き生きとよみがえって、胸いっぱい息をつくことでしょう。しかし僕だけは、あらしも神鳴りも、心の曇りを洗い落してはくれないのだ。自分の一生はもう駄目だ、取返しがつかない、という考えが、まるで主(ぬし)か魔物のように、よる昼たえまなしに、僕の胸におっかぶさっているのです。過ぎ去った日の、思い出もない。くだらんことに、のめのめと浪費してしまったからです。じゃ現在はどうかと言うと、いやはやなんともはや、なっちゃいない。これでも僕は生きているつもりです。これでも僕は、人間らしい愛情を持っているつもりです。だがそれを、一体どうしたらいいんです? どうしろとおっしゃるんです? 僕の人間らしい気持は、まるで穴ぼこに射した陽の光のように、むなしく消えてゆくんです。そして僕という人間も、自滅してゆくんです。
エレーナ あなたが、その愛だの愛情だのという話をなさると、あたしはなんだかぼうっとしてしまって、どう言っていいかわからなくなるわ。済まない――とは思いますけれど、何ひとつ申しあげることができないの。(行こうとする)おやすみなさい。