クロード・シモン『アカシア』(平岡篤頼 訳)

 というのも、彼らをつつむ濃い闇のなかで、その音はどちらかの方向への、なんらかの速度での移動も進行も感じさせなかったからだった。だから(受け身で、雨と疲労に背中をまるめ)騎兵たちは床に螺子(ねじ)でとめられ、精妙な機械仕掛で並み足の馬のいくぶんぎこちない腰振り運動をまねる、あの人工の馬に乗っているのとおなじなのだった。走るときのどんな風、どんな空気の動きも(雨だけが垂直に、密に、執拗にとかがむしゃらにとかいうのですらなく降りつづけ、降ることだけに自足していて)、彼らのまわりの書き割りのどんな目につく変化も(ただ暗く、不透明で、底知れず、遅かれ早かれふたたび夜が明けるなどと期待させるようなものはなにもなく)前進を感じさせること、前進のもくろみさえ感じさせることはなかった。ただ彼らはその場に、ほぼ身動きもせず、坐って、というかむしろ見えない生き物の背にまたがっているだけで、彼ら自身どんな努力もはらわず(疲労に堪え、眠気とたたかう努力でないとしたら)、もしかしたら畑や牧場や耕地や木立だったかもしれないものにかこまれ(時折、ぱかっぱかっという音のこだまがかすかに変化し、なんだか狭い、窮屈なところでも(森か、集落か?)通っているみたいで、ついでまた正常にもどり、ふたたびあたりにひろがり)そんな広大な足踏みの音、というか蹉跌のぱかっぱかっという音に満ちたこのインクのような暗闇に一様に呑みこまれていて(時折なにかがちゃがちゃといったり、かちんと鳴ったり、ぶつかりあう金属のかすかにこすれる音などして、まるでかぶと虫の鞘羽根(さやばね)がこすれたり、胸とか顎とかがぶつかる音みたいで)、その音はまた、黒い雲となって舞いおりて畑を食い荒らし、あるいは、と伍長は考えたものだが、上になり下になりしながら、すでに腐臭のするなにかの死骸の上にひしめく無数の虫の漠としたざわめきにも似たジージーという音ともいえ、すなわち、その死骸とは《歴史》の子宮ではなくて(まるでその起源と終焉とを同時にふくんででもいるかのごとくで)《歴史》の黒い死体なのだった。ついで彼が考えたのはその反対のことで、《歴史》のほうが彼らを食い荒らしつつあるのだということで、生きたまま、装具や鞍や銃器、さらには拍車まで、馬も騎兵も生きたまま混ぜこぜにして、その無感覚で絶対に穴のあかないダチョウの胃のなかに呑みこみつつあって、胃液と錆が尖った歯のついた拍車の歯車をふくめていっさいを、彼らの軍服の色そのものような色のねばねばした黄色っぽい粥状物質(マグマ)に還元する役目を果たし、それらはだんだんと消化されて、最後にその年老いた人食い女の皺々の肛門から排泄物のかたちでひり出されるというわけだった。