クロード・シモン『フランドルへの道』(平岡篤頼 訳)

それからいきなり声が変わり、調子はずれの、ふたまわりも大きい、つんざくような声で、「そこでそのデジャニールがだな……」、そこでジョルジュ、「ヴィルジニーだよ」、そこでブルム、「なにが?」、そこでジョルジュ、「ヴィルジニーという名前だったんだ」、そこでブルム、「色気ちがいにしてはしゃれた名前だな。そこでその処女みたいな(ヴィルジナル)ヴィルジニーが息をはずませてはだかでいて――というかはだか以上で、つまり彼女の着ている――というかむしろ脱いでいる――ネグリジェはだな、きっとあのとりこになった手を生暖かい液体みたいな腹にそって下へすべりこませ、めくれあがり、乳房までたくしあげられ、さらさらとした泡みたいな襞となって腰の上のほうにたたまり――例のあの貴重で、繊細で、途方もなく高価な品物が泡立つような繻子のなかに陳列されている高級品店のショーウインドーみたいで――あのかくされた、ひそかな口をむき出しにして、人目にさらすためだけに作られたみたいなネグリジェなんだ、つまりただ女が横になっているというのではなくて、ひっくりがえされ、ことばの正確な、力学的な意味でもんどりうってつまりまるで彼女のからだが、自然の要求をみたすためにしゃがみこむあの先祖伝来の姿勢からそのまま半回転して――だって女はあらゆる欲求をみたすのにたったひとつの姿勢、脚を折りまげ、腿を脇腹に押しつけ、膝がこんもりと影をたたえた腋の下にふれるといったあの姿勢しかできないんだからな――だがこのときはまるで地面がぐらりと揺れ、彼女をその姿勢のまま、あおむけにひっくりかえしたみたいで、いまは地面に向かってではなく空に向かって神話的なあの受胎、なにかかちかち鳴る黄金の雨みたいなものでも待つみたいに、彼女のふたつの尻、あの真珠貝、あの茂み、押しひらかれる前からすでにぬれて光っているあの永遠の傷口をさし出していたので、あまりにもはしたなく露呈されているためまるでそれが待つ行為は、突きさし、押しいり、きしみながらせまい肉のなかにのめりこむなにかといえば連想されるような、外科的な適確さと露骨さをおびた行為みたいで、でなくともそれが(ありのままの、飾りをとりのぞいた、情念と関係する面をとり去ったその行為自体が)あきらかに生理学の領域に属するという意味ですくなくともほとんど医学的な行為で、だからこそあのどこにでもあるいろんな構図のあぶな絵のなかで灌腸が、例の一物の挿入というテーマの無数のヴァリエーションの口実となっているので、それはただかたいばかりでなく強烈な勢いで、まるでそれ自体の液体化した延長みたいにあのがむしゃらな乳液、あのしぶきを外に噴出し、発射することもでき……」
 そこでジョルジュ、「いいかげんにしろ!……」
 そこでブルム、「そういうおまえは夢見がちにうっとりして、壁の上に名誉あるとはいわないがすくなくともまあ殊勝な、ロマンチックなピストルの弾丸(たま)の跡ばかり捜していて、こんな場面が目に浮かんだことはないのか、つまりベッドのそばに置いたろうそくの光が投げる、筋骨たくましい背中のせむしみたいな、複雑な、ばねのようにはずむ影だな、その影の腰のところに乳色の脚、あんず色の踵(かかと)をした足が――マストにしがみつく難船者の脚みたいに――からみついていて、それが(影が)無気味に、山のようにふくれあがり天井までとどき、その下にいるけものみたいなものをゆさぶるあのたけり狂った大波であらしのようにゆさぶられていて、そのふたつの顔、四本の腕、四本の脚をもったけものみたいなもののふたつの胴体を腹のところで接合しているあの共通の器官(というかお望みならどちらにとっても自分のものでない器官といってもいいな、なぜって男のその部分は男のからだの内部にも女のからだにもおなじように食いこみ、おなじ長さの対称的な突起で両方の内臓の奥ふかくまで延びているというふうに見えはしないか?)、その筋肉、その突き錐(きり)、あの赤ぐろい、ぎらぎら光る、荒れ狂った乳棒がふたつのぼうぼうと茂った褐色のしげみの間に見えかくれしていたんで、そこへ彼が(ド・レシャックが、というか平民になったんだから《ド》なしのただのレシャックだな)突然姿を現わし……」

   ※太字は出典では傍点