村上春樹『辺境・近境』

 でも僕はプリンストン大学の図書室で、ノモンハン戦争に関する書籍を何冊も読んでいるうちに、そしてその戦争の実態が頭の中に比較的鮮明に浮かび上がってくるにつれて、自分が強くこの戦争に惹かれる意味のようなものが、ぼんやりとではあるけれど把握できるようになってきた。それはこの戦争の成り立ちがある意味では「あまりにも日本的であり、日本人的であった」からではないのだろうかと。
 もちろん太平洋戦争の成り立ちや経緯だって、大きな意味あいではどうしようもなく日本的であり日本人的であるわけなのだが、それはひとつのサンプルとして取り出すにはスケールがあまりにも大きすぎる。それは既に、ひとつのかたちを定められた歴史的なカタストロフとして、まるでモニュメントのように我々の頭上に聳えたっている。でもノモンハンの場合はそうではない。それは期間にして四カ月弱の局地戦であり、今風に言うならば「限定戦争」であった。にもかかわらずそれは、日本人の非近代を引きずった戦争観=世界観が、ソビエト(あるいは非アジア)という新しい組み替えを受けた戦争観=世界観に完膚なきまでに撃破され蹂躙された最初の体験であった。しかし残念なことに、軍指導者はそこからほとんどなにひとつとして教訓を学びとらなかったし、当然のことながらそれとまったく同じパターンが、今度は圧倒的な規模で南方の戦線で繰り返されることになった。ノモンハンで命を落とした日本軍の兵士は二万足らずだったが、太平洋戦争では実に二百万を越す戦闘員が戦死することになった。そしていちばん重要なことは、ノモンハンにおいても、ニューギニアにおいても、兵士たちの多くは同じようにほとんど意味を持たない死に方をしたということだった。彼らは日本という密閉された組織の中で、名もなき消耗品として、きわめて効率悪く殺されていったのだ。そしてこの「効率の悪さ」を、あるいは非合理性をいうものを、我々はアジア性と呼ぶことができるかもしれない。
 戦争の終わったあとで、日本人は戦争というものを憎み、平和を(もっと正確にいえば平和であることを)愛するようになった。我々は日本という国家を結局は破局に導いたその効率の悪さを、前近代的なものとして打破しようと努めてきた。自分の内なるものとしての非効率性の責任を追及するのではなく、それを外部から力ずくで押しつけられたものとして扱い、外科手術でもするみたいに単純に物理的に排除した。その結果我々はたしかに近代市民社会の理念に基づいた効率の良い世界に住むようになったし、その効率の良さは社会に圧倒的な繁栄をもたらした。
 にもかかわらず、やはり今でも多くの社会的局面において、我々が名もなき消耗品として静かに平和的に抹殺されつつあるのではないかという漠然とした疑念から、僕は(あるいは多くの人々は)なかなか逃げ切ることができないでいる。僕らは日本という平和な「民主国家」の中で、人間としての基本的な権利を保証されて生きているのだと信じている。でもそうなのだろうか? 表面を一皮むけば、そこにはやはり以前と同じような密閉された国家組織なり理念なりが脈々と息づいているのではあるまいか。僕がノモンハン戦争に関する多くの書物を読みながらずっと感じ続けていたのは、そのような恐怖であったかもしれない。この五十五年前の小さな戦争から、我々はそれほど遠ざかってはいないんじゃないか。僕らの抱えているある種のきつい密閉性はまたいつかその過剰な圧力を、どこかに向けて激しい勢いで噴き出すのではあるまいか、と。
 そのようにニュージャージー州プリンストン大学のしんと静まり返った図書室と、長春からハルピンに向かう混雑した列車の中というまったくかけ離れた二つの場所で、僕は一人の日本人としてだいたい同じような種類の居心地の悪さを感じ続けることになった。さて、我々はこれからどこに行こうとしているのだろう?

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