村上春樹『辺境・近境』

 故郷の村から都会に出てきたインディオの青年の話を聞いたことがある。その青年は、故郷の村に暮らしているときには一度も飢えたことがなかった。貧乏な村ではあったけれど、飢えというものを彼は知らなかった。何故ならその村でもし彼がお腹を減らしているとしたら、誰かに「こんにちは」と挨拶をすればよかった。すると相手はその声を聞いて「ああ、お前は腹を減らしているようだな。うちに来て御飯をお食べ」と言って、御飯を食べさせてくれたのだ。その「こんにちは」という言葉の響きかたひとつで、相手が空腹かどうか、からだの具合が悪いかどうかまでちゃんとわかってしまうのだ。そういう響き合う心の中で彼は育ったのだ。だから都会に出てきてまだ間もないころには、そのインディオの青年はお腹が減ると、いろんな人に向かって「こんにちは」と言ってまわった。でも誰も御飯を食べさせてはくれなかった。彼らはただ「こんにちは」と挨拶を返すだけだった。彼はお腹が減って声が出なくなるまで「こんにちは」と言ってまわった。でも誰も「うちに御飯を食べにおいで」とは言ってくれなかった。そしてそこでようやく彼は認識したのだ。ここでは誰も言葉の響きというものを理解しないのだと。

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