レイ・ブラッドベリ『何かが道をやってくる』(大久保康雄 訳)

「そうか。それじゃ、いまからちがう考えかたをするんだね。町じゅうで一番幸福そうで、一番にこやかな微笑の持主が、ときには一番重い罪の荷を背負っている場合もあるのだよ。微笑にもさまざまある――その明暗のちがいを見分けることが大切なんだ。アザラシみたいに吠えたり、豪傑笑いをする男は、自分を隠すために、そうしている場合が多いものだ。冗談をいい、笑い飛ばして、罪の意識をまぎらせているわけだ。しかも、人間というやつは、罪を愛している面もある。多種多様な形、大きさ、色合い、匂いの罪を、じつに烈しく愛しているのだよ。食卓でなく、かいば桶のほうが、われわれの食欲をそそる場合もあるのだ。他人のことを、あんまり大声でほめあげるやつがいたら、そいつは豚小屋から起きてきたばかりじゃないかと疑ってみる必要がある。そうかと思うと、一方には、まるであらゆる罪と罰を背負ったような、見るからに不幸そうな、青ざめた顔をした、思わせぶりな男もいる。そいつが、おまえのいわゆるいい人間なんだよ、ウィル。なぜそんなふうになるかというと、善人であることは非常に恐ろしい職業だからだ。そうなろうと努力するあまり、真二つに分裂してしまうことだってあるのだ。そうなった人間を、わしは何人か知っている。彼らは豚になるよりも善人になろうとして、倍も努力したわけだ。善人になろうと心を悩ませば、いつかは心の壁にひびが入るようになるものなんだ。決して世にこびない高潔な人間でも、ときには節をまげなければならなくなることがある。
 ほんのちょっとでも世俗に染まれば、もはや孤高を保つことができなくなる。世俗からぬけ出すことができなくなるのだ。
 もしおまえがあくせくと考え煩うことなしに、立派な人間になれ、立派な行為ができたら、まったくすばらしいだろう。しかし、それはむずかしい。たとえば、冷蔵庫の中にレモン・ケーキの最後の一片があるとする。それはおまえのものではないのだが、もしおまえが夜中に暑苦しくて目を覚まして、そのケーキのことを思い出したら、どうなる? わしが説明するまでもなかろう。あるいは、初夏の暑い昼さがり、おまえが学校の教室の机から離れられないとき、遠くの渓流が涼しいすがすがしい音をひびかせて流れているといったような場合だ。何マイル離れていても、そういう水の音は、子供の耳に聞こえるものだからね……。そんなふうに、おまえは刻一刻と、善人になるか、悪人になるかの選択を迫られる。それは一生涯、いっときも休まずつづくのだ。時計が時を刻むのは、そのためなんだ。あのちくたくという音の意味は、そういうことなのだよ。教室からぬけ出して泳ぎに行くか、暑いのを我慢してとどまっているか。飛んでいってケーキを食べるか、ひもじいままに寝ているか。そこで、おまえは教室に踏みとどまる。しかし、いったん踏みとどまると、その秘密がわかってくるのだ。二度と河のことを考えなくなる。ケーキのことをあきらめる。なぜなら、そうしないと気が狂ってしまうからだ。こうして、泳がなかった河や、食べなかったケーキなどが、どんどんたまってゆく。そして、おまえがわしの年になったころに、それがたまらなく恋しくなるのだ。しかし、当時は、河にはいることが多ければ、それだけ溺れる可能性も多くなるとか、レモン・ケーキを食べすぎればお腹をこわすなどと考えて、自分を慰めていたのだ。ことによると単なる臆病心から、過激を避け、待ち、安全な道を選んでいたのかもしれないがね」

   ※太字は出典では傍点