レイ・ブラッドベリ『何かが道をやってくる』(大久保康雄 訳)

父親はすこしも荷を背負わず、苦痛も感じない。女のように、暗闇の中に寝て、赤ん坊といっしょに起きる男がいるだろうか? 母親のやさしい微笑には、すばらしい秘密があるのだ。ああ、女というやつは、なんというすばらしい、不思議な時計であろう! 女は時間の中に棲息する。永遠と固く結ばれた肉体をつくる。彼女らは天賦の中に生き、力を体得しているので、それについて語る必要すらないのだ。時間そのものであり、普遍的な各瞬間を愛情と行動の中に表現しているものが、どうして時間について語る必要があろう。自分が永遠に生きるであろうことを知っているそのような温い時計を、妻を、男は、どんなにか羨み、ときとしては憎んでいることであろう! われわれ男性は、そこでどうするか? われわれは、この世の中にも、われわれ自身にも、何ものにも寄りすがることができないために、非常に卑劣になる。われわれは永続性に対して盲目で、すべてが、はかなく崩れ去り、溶けて腐って消えてしまう。われわれは時間を形成することができないのだ。そこで、どうなるか? 眠れない。目が冴えるのだ。
 午前三時。それは、われわれに対する報いなのだ。朝の三時、魂の真夜中。潮が退き、魂は衰える。そして、その絶望の時刻に汽車がやってくる……。なぜだ?