マイケル・ギルモア『心臓を貫かれて』(村上春樹 訳)

 それが僕が学んだ人の愛し方だった――自分にとって欠くことのできない二つの愛のあいだで、仲を取り持つこともかなわない二つの愛のあいだで、二者択一を迫られること。そう、愛とは人をも殺しかねない行為なのだと僕は学んだ。あるいは少なくともときとして、選択とは殺人と同義なのだと。自分が両親のどちらを捨てるかを決め、どちらをより好きか、より愛しているかを明確にすることで、あとの一人を傷つけざるをえないことを僕は承知していた。また実際に僕は、黒白をつけることによって、どちらかの心を殺したものだった。大抵の場合、殺さなくてはならなかったのは母の心だった(僕が母のことを恐れたのも無理はないだろう)。
 このような出来事の結果、後年になって、僕は愛を何度も裏切ることになったし、そればかりではなく、愛という所業に対して希望を抱けなくなってしまった。愛を保留したり引っ込めたりするのがどれほど恐ろしいことかを、僕はよく知っていたし、誰かが自分に対して同じようなことをするんじゃないかと、恐くてたまらなかったからだ。僕は知っていた、誰かに去られるのは拒絶されることであり、断罪されることであり、無価値だと宣言されることなのだと。誰かが僕に向かって、あなたのことを愛していないし、あなたを求めていないし、あなたを必要としていないし、あなたと生活をともにしたくなんかないと告げることを、僕は何よりも恐れていた。言い換えるなら、自分が幼年時代を通じてやらされてきたのと同種の選択の犠牲者になってしまうことに怯えていたのだ。だから僕はときとして愛情の出し惜しみをしたり、どこかにひとつ逃げ道を用意したり、またときには一度に複数の恋人を作ったりした。でもそのたびに必ず僕は犠牲者として苦渋をなめることになった――選ばれなかったものとして、捨て去られたものとして。
 僕はあるいは、子供時代のドラマにいろんな責任を押しつけすぎているのかもしれない。僕が女性問題で失敗を重ねてきたのは、あくまで自分自身の過ちのせいで、神が与えたもうた愛の機会を、いつもこっちから勝手に台なしにしてきたのかもしれない。僕の人生を一貫して損なってきたのは、僕自身以外のなにものでもないのかもしれない。
 でも僕はやはり首をひねらないわけにはいかないのだ――僕は女性とキスをするときには両親のことなんかちらりとも考えない。なのになぜ、女性に捨てられたり、あるいはうまくいかなかったときに、必ず両親のことが頭に浮かぶのだろう?