阿部嘉昭『松本人志ショー』

松本のつくりだす漫才やコントは見事にオチを欠いている。だから総体でそれらの時間をとらえれば、それはひとつの無変化という「停滞」をしか示さない。ただ、その瞬間瞬間が笑いのための創意にみち、だから「停滞」のなかを、なおも時間が豊かにあふれだしているという印象に観客を導くのだ。そしてこれは、日本のみではなく、アジアの芸能が固有につくりだす時間のひとつの型ではないだろうか。たとえば侯孝賢の映画。映画の時間をやたら長いシーンの単位で無造作にザク切りし、しかもそれらを無作為に並べただけのように一見思える彼の映画の時間性は、そのかぎりではとても停滞的で催眠性に富んでいる。だがその長いシーンのなかで微細に変化する光やひとの顔の物質性はどうだろう。その変化の刻々をみとめたとき、物語効率にすべてを秩序づけようとするハリウッド映画などとはまったくべつの時間がそこに流れているという感動に観客はいざなわれるはずだ。そして侯映画のほうがハリウッド映画よりぜんぜんつよい「時間」をもっているとも観客は理解するだろう。その彼の映画もまた、不思議な終りかたをする。それは余韻を渺々と生みだす豊かさをもっていても、大体がある局面でフッと消えるような作法なのだ。いうなら、「終るぞ」「終るぞ」というさんざんの予告のうえについに射精してしまうようなハリウッド映画の型というよりも、諦めにみちた「切断」という感じにちかい。このように説明すると松本の笑いの時間生成の型と、アジア映画を代表する侯孝賢のそれが、意外な親近性をもっている点が理解されるだろう。
 むろん、アジア的芸能における時間の型はひとつではない。落語の長屋物で熊さん、八っつぁん、ご隠居などが入れ替わり立ち代わり「出入り」し、それで時間と空間を不可分にする手法などは、山水画から洛中洛外図などの屏風から成瀬巳喜男川島雄三映画などにも普遍的な方法だし、たとえば局面局面でさまざまな試練が主人公を待ち受け、主人公が流浪してゆく最近の大陸中国が生んだ大傑作映画『變臉』(呉天明監督)の「お話」の作法は、『をぐり判官』『さんせう太夫』『しんとく丸』『かるかや』といった日本の説教節の型とも相似形をなし、またその説教節の物語の富を中上健次などは自分の小説のなかへと奪還したのだった。