阿部嘉昭『松本人志ショー』

 たけしの視線は状況に対して全体把握的だ。その全体把握をおこないながら滑空してゆくことで彼の漫才の「時間」が生じる。彼はだからそこに「現代」という領域をつくりあげることができた。領域の実体化というこの点を考えれば、その漫才は「積分的」と呼べるだろう。対して、ダウンタウンの漫才はその逆――「微分的」だ。たけしが老婆や田舎者という「タイプ」を野放図かつ迫力をもって列挙したのとは逆に、彼らはひとつのタイプのなかに「潜る」。タイプをあげつらうのではなく、そのタイプを演じる――そのタイプに「なる」のだ。しかも、そのタイプは一般化される存在というよりも、一般化できないニュアンス的な存在であることが多い。だから彼らの漫才の刻々はタイプをある局面から別の局面への連続のなかで次つぎに微分してゆく演劇的要素にみちてはいても、最終的には微分という作業が届かない澱(おり)というか謎をのこす。そしてその謎があるからこそ、みずからを蕩尽しきるたけしが最終的に観客から「微分」されたのに対し、彼らは――とくに理不尽の根源である松本は――みずからを謎の領域に温存できる。そうして漫才において役柄振分けの最初の瞬間にはじまった松本の謎は、漫才が終ってもついに謎に終始する。その松本のみえない実体を推しはかろうとする観客の視線は、今度はたけしに対するのとは逆に、この局面で積分的なものに変化するといってもいいだろう。