井上忠司『「世間体」の構造 社会心理史への試み』

 このようにみてくると、「世間」はひろいようでせまい。「世間」は知らなくてはならないが、知りすぎてもこまる。「世間」をさわがせてはいけないが、そうかといって、無関心であってはならない。「世間」はあまくもなければ、つめたくもない場である。ざっとこんなところが、「世間」をめぐる慣用句からみた、「世間」のイメージの要約であろうか。
 ここではじめて闡明に浮かびあがってきた「世間」の特徴は、「世間」はどうやら、よほど極端をきらうものらしい、ということである。このような性質をそなえている「世間」をもっとも賢明に渡るこつは、すべてにわたって、「世間なみ」に生きることであろう。〈世間一般〉の例を規準にして、それを抜け目なく遵守していさえすれば、人は、はずかしい思いをしなくてもすむからである。反対に、「世間ばなれ」したら、人は、へんくつな変わり者としての、さみしい生涯をおくらねばならない。
 故事ことわざのたぐいには、「好きこそ物の上手なれ」という反面、「下手の横好き」ともいうように、もともとアンビヴァレント(両義的)な意味あいがこめられているものである。矛盾したいいまわしが対(つい)になっているのは、ことわざのつねであろう。「世間」をめぐることわざのたぐいとて、けっして例外ではない。本質からいえば、矛盾し、相反する意味内容を、状況によってたくみにつかいわけるところにこそ、ことわざの生命があり、おもしろさがあるのだ。にもかかわらず、「世間」にかぎっていえば、「世間」をめぐる慣用句がことごとく「世間なみ」に収斂していることに、私はことのほか注目したいのである。そのことがとりもなおさず、「世間」の特徴である、と断ぜざるをえないからである。
 思えば、わが国の人びとの多くは、「世間なみ」に生きることを、人生のモットーとしてきたのではなかったか。それが積極的にはたらいたばあいには、「世間なみ」の生活水準がたもて、「世間なみ」の知識をもたないとはずかしい、ということで、かれらはがんばって生きてきた。この「世間なみ」に生きようとがんばるエネルギーが、わが国の近代化のひとつの精神的な原動力となってきたといっても、けっして過言ではあるまい。その反面、異端のもつ大胆なエネルギーが発揮されることは、きわめてまれであった。ことの善悪をとわず、自分だけがとびぬけて目立つということは、「世間」の手前、すぐれて気はずかしいことでなければならなかったからである。

   ※太字は出典では傍点