長谷川宏『ヘーゲル『精神現象学』入門』

 そもそも、ものを書くということが思考の暴走に歯どめをかけることなのだ。どんなによく知っていること、よく考えぬいたことでも、さてそれを文章に書きしるすとなると、あらためてどう書いたものかと構成を練る必要があるのは、思考することとものを書くこととのあいだに、容易に超えがたいへだたりがあるからである。
 思考は自分だけを相手に展開することが可能で、自分さえ納得すればどんな逸脱も暴走もゆるされるが、文章に表現するとなるとそうはいかない。ことばというものは、一定の社会に共有される表現ないし伝達の規範であって、思考をことばで書きしるそうとすれば、そこにどうしても、自分の思考を他人の目で見るという過程が入ってこざるをえないのである。
 思ったままを書く、などということはもともと不可能なことで、そんなつもりでペンを握っては、なにも書けはしない。書くことと思考することとの落差にさまざまな角度から光をあてたフランスのモラリスト、アランは、もの書きの心得は、思うように書くのではなく、書くように思うことだ、との至言を残している。