ホワイトヘッド『象徴作用』(市井三郎 訳)

 このように人類は、その念入りな象徴的移行体系によって、遠隔の環境や問題的な未来に対する奇蹟のような感受性を達成することができる。しかし人類は、それぞれの象徴的移行がやたらに不適当な性格をもちこむかも知れない、という危険な事実のために、罰金をも払っているのである。すべての個々の有機体における単なる自然の成りゆきが、すべての観点からしてその有機体の生存やその幸福、あるいはその有機体の加わっている社会の進歩、といったもののいずれかに有利なものである、ということは本当ではない。人間が憂うつな経験をもつということは、この警告を陳腐なものとしているくらいである。精巧な有機体のどのように精巧な共同社会も、その象徴作用体系が一般に成功をもたらすようなものでない限り、存続することはできなかった。さまざまな法典や行動規律、芸術の諸範型といったものは、概して有利な象徴的相互関連を助長するところの、組織的な行動を押しつけようとする試みなのである。共同社会が変化してゆくにつれて、すべてその種の規律や範型は、理性の光に照らし合わせた修正を必要とする。この場合に達成すべき目的は、二つの側面をもっている。すなわちその一つは、共同社会をそれを構成する諸個人に従属させることであり、いま一つは諸個人をその共同社会に従属させることである。自由な人間たちは、みずから作った規律に服従する。そのような規律は、一般に社会に対して次のような行動を課することがわかるだろう。すなわち、社会の究局的な存在目的に関連していると考えられる象徴作用、なるものに関係している行動である。
 文明の主たる進歩が、その進歩を生起させる社会をほとんど難破させるような過程――子供の掌中にある矢に刃向かうような過程――である、ということを認めるのは社会学的英知における最初の第一歩である。自由な社会を営む技術は、まず第一に象徴体系を維持することにあり、第二には、その体系が啓蒙された理性を満足させる諸目的にかならず役立つものであるように、その体系を恐れることなく修正してゆくことにある。みずからの象徴作用に対する敬意と、自由にそれを修正してゆく態度とを兼ね備ええないような社会は、究局的には無秩序か、あるいは無益な幻影に窒息させられた生命の緩慢な委縮症かの、いずれかによって衰退しなければならなくなる。

   ※太字は出典では傍点