薄井坦子『科学的看護論』

 どのような対象も,たとえば人間も,一般的なものと特殊的・個別的なものとを併せもっており,何を一般と見,何を特殊と見るかは,実践上の必要性が決めるのであって,現実的な問題を解こうとしたとき,この論理構造は容易に納得されるはずである。たとえば6人部屋の大人の患者のなかに1人混じっている15歳の少年患者があったとき,その患者を看護する場合どんなに多くの一般論を使うであろうか。たとえば,15歳の少年患者という特殊性を問題にするときには,<15歳の少年とは>という一般論,すなわち,子どもから大人へと変化の激しい身体面,自我の拡大・異性への関心・学習上の葛藤といった精神面,進学をめぐる家庭や学校の条件など社会面の問題に直面する段階にある人間であるという知識を媒介にしなければ,その少年が入院に至ったライフサイクルにおける特殊性をつかむことはできない。また,その患者の日常生活のもつ特殊性を問題にする場合には,人間の日常は,眠りから目覚め,排泄や清潔行動をとって衣服を着がえ,食事をとって活動に入るなどといった生活一般を媒介にしてとり組まなければ,日常生活の何をどのようにケアすればよいか見れども見えずで終わることになりかねない。われわれが対象の個別性に迫り得た看護をしなければととり組むとき,一般論は役に立たないどころか,まさに<導きの糸>なのである。この例の場合も入院患者という一般論だけで少年患者に接すると,特殊性を無視した押しつけ的看護になるし,15歳の少年という特殊性に心を奪われてしまっては,患者一般のもつ問題解決がおろそかにされることもあり得る。その他,健康障害の種類の特殊性,たとえば安静を必要とする場合でも骨折と腎疾患ではその意味が異なってくるとか,障害の発生直後か安定期に入っているかなど健康の段階に応じた特殊性とか,多くの特殊性が有機的につながってその患者の個別性を構成している。したがって看護するために対象をみつめるときには“看護するとはどういうことか”という基本線がどうしても必要となる。その基本線こそが看護一般論なのである。つまり,看護学の対象である看護そのものの特殊性・個別性を明らかにするためには看護一般論が必要だということであって,それは,学ぶことによってしか身につけることはできない。