鷲田清一「空を飛ぶ夢」(『死なないでいる理由』所収)

 なぜひとはくりかえし飛ぶ夢を見るのか。
 ひとが言葉を話すからだ、というびっくりするような答えに、最近、友人の精神科医が書いた本のなかで出会った。彼、新宮一成はいう。
「振り返って考えてみれば、かつて嬰児として横になって上を見ていた我々人間にとって、言葉はもともと空のものである。それを獲得することは、横になっているだけの存在に別れを告げて、別の存在になるということである。元の存在はそこに取り残され、言葉が言葉の外の世界を暗示するときに、わずかに姿を現わすだけとなる。空飛ぶ夢は、このような根源的な変化の記録なのだ」(『夢分析』)
 ふだん寝ころんで生活している嬰児にとって、大人ははるか上にいる。上で、口から出る音が行き来して、その声だけで、たがいにふれもしないのにひとが動く。押したり、しがみついたり、まとわりついたりしないで、である。だから大人になるというのは、こういう、言葉が飛び交い「声の奇跡」が起こる平面に躍りでたということを意味すると、新宮はいう。言葉が話せるようになったという自覚は、空に達したという感覚として登録されるというのだ。「たかいたかい」と父親に空に持ち上げられたときの体感がこれを裏打ちする。
 そして、学校へ行き、会社に入り、異性と恋愛するというふうに、人生において新しい言語の水準にうまく入れなくてとても不安になるときに、ひとは空飛ぶ夢を見ることで、「かつて赤ん坊から人間になったときにあれほどうまくできたではないか、話せるようになったではないか、ということを自分に言い聞かせている」のだというのだ。とても納得のいく説明である。
 さて、これを裏返していえば、言葉を話すというのは、じぶんから離脱する体験、じぶんがじぶん以外のものになって外側からじぶんを眺めるようになる体験でもある。スピード狂はいまじぶんがいるここから離脱したいと希(ねが)う。どこまで行ってもじぶんがいるところはここなのに、それでもここからじぶんを離したいと希う。これは現実のなかの夢である。言葉を話せる人間が空飛ぶ夢を見る。これは、かつてもう飛び立っていまは夢のなかにいる人間の夢である。それは、夢のなかの夢。