鷲田清一「まえがき」(『死なないでいる理由』所収)

 わたしがここにいる。物は物としてそこにある。わたしの眼の前に物があるということのほかに、そこには関係も何もない。ありふれた光景だといえば、たしかにありふれている。
 だが、ここで、関係がないというかたちでわたしと物との関係があるということじたいに、ある苦痛を感じるひとがいる。ある物との関係はこれから始まるのであろうに、なぜか先に、いずれ関係が起こるかもしれない物とのそういう関係のなさに、疼きを憶えてしまうひとがいる。
 物がわたしとは関係のないものとしてぽつんとそこにあるということ、その事実に疼くというのは、わたしたちが母から引き剥がされたときの生存の原風景とでもいうべきものだった、と言えるかもしれない。その事実は、じぶんがそれをともに見ていた母親から引き剥がされたこと、わたしが取り残された存在なのだということを想い起こさせるからである。そういうダメージが喚びおこす感情と同質のものが、いまひとびとの、なんでもない、ありふれた物たちに囲まれた日常のなかに染みわたってきていると、ふと感じることがある。母から引き剥がされたときとはちがって、こんどは意味に渇いて。
 ここにいること、生きつづけていることに、理由が必要になった。すくなくともじぶんが納得できる理由が。そしてそれが見つからないときには、ただ訳もなく生きているという感情しか生きるということにたいして抱けない、そういう寂しさがひとりひとりの存在に滲みだしているような。だからだろう、だれかに、あるいは何かに微かな隙間さえもなく密着しているのでないと、じぶんの存在がふと消えてしまうような切迫した想いを、ひとの表情に、あるいはふるまいに感じることがある。そしてそんなに「寂しい」のに、なぜ、それでもなおひとは死なないできたのか? そういう問いがわたしのなかで頭をもたげる。