鷲田清一「「親密な」光景」(『死なないでいる理由』所収)

家庭、そこでは社会というものをかたちづくるひととひととの最後の絆としての〈親密性〉とか〈信頼〉をからだで覚える。家庭という場所、そこでひとは無条件で他人の世話を享ける。言うことを聞いたからとか、おりこうさんにしたからとかいった理由や条件なしに、じぶんがここにいるという、ただそういう理由だけで世話をしてもらった経験がたいていのひとにはある。こぼしたミルクを拭ってもらい、便で汚れた肛門をふいてもらい、顎や脇の下、指や脚のあいだを丹念に洗ってもらった経験……。そういう「存在の世話」を、いかなる条件や留保もつけずにしてもらった経験が、将来じぶんがどれほど他人を憎むことになろうとも、最後のぎりぎりのところでひとへの〈信頼〉を失わないでいさせてくれる。そういう人生への肯定感情がなければ、ひとは苦しみが堆積するなかで、最終的に、死なないでいる理由をもちえないだろうとおもわれる。