斎藤環『OK? ひきこもりOK!』

 すでに精神分析がヒステリーなどについて明らかにしていることですが、人間は、あるいは、社会は、病理的な部分を抱えることで一種の均衡を保っていると考えることができます。極端ですがわかりやすいイメージでいうなら、社会における病理の総量は常に一定である、というのが私の基本的な考え方です。このあたりは異論も多いでしょうし、もちろん実証不可能な部分ですから、あくまでも私個人の人間観みたいなもの、と受け止めていただければ結構です。
 そもそも精神分析がなんのためにあるか、と言えば「変われば変わるほど変わらない」という真理に繰り返したどりつくための技法としてではないでしょうか。ポストモダンにおける主体の変容、などといった議論を面白がりつつ、一抹の違和感を禁じえないのは、そういう立場をとっているためでもあります。
 この立場をとることの意義は、ほかにもあります。
 無意味な懐古趣味や進歩趣味に取り込まれずにすむということです。
 懐古趣味というのはたとえば「いまどきの若い者は」という議論に代表されるものですね。しかし「若者の成熟」とは、永遠に遅れつづけるものです。「父性」が永遠に懐古されつづけるものであるように。
 人間の欲望、人間の病理、そうしたものは、その表面的なあらわれは確かに時代とともにどんどん変化します。ただ、その変化を生み出す基本的な構造は変わらない。
 フロイトラカン的な文脈で言えば、人間は言葉というOS(オペレーション・システム)をインストールされてしまったがために人間なのであり、このOSがさまざまな欲望を可能にするということです。そしてまた、その欲望ゆえに、人間は決して満足することがない。
 これがもし動物の本能のように、欲求とその対象がきちんと定まっていたら、「心の病理」などは存在しなかったでしょう(心そのものが存在しなかったかもしれませんけど)。
 しかし人間に「本能」はない。だからこそ食欲の自明性すら壊れてしまうような、摂食障害のような病理が起こってくるのです。こうした「欲望のあいまいな対象」性もまた、言葉を語る存在の宿命でもあります。
 私の言う「病理」とは、この言葉というOSが構造的に抱え込んでいるバグのようなものです。あるいは作家バロウズにならって「言葉は宇宙から来たウィルスだ」と言ってもいい。私達はウィルスのように言葉に感染し、欲望と病理という症状を生きる存在と考えることもできるのですから。