ゴンブローヴィッチ『フェルディドゥルケ』(米川和夫 訳)

きみたち芸術家は自分の使う語句のすべてから身を避けるよう試みたまえ。自分の言葉を信じてはならぬ。自分の信念のまえで警戒を怠ることは禁物だ。自分の感情に心を許してはならない。外にむかって現われている自分から後退すること。なによりもまず、いっさいの外的表現を前にしたとき、諸君が恐怖に捕われるようになればいいのだ――ちょうど蛇を目の前にした小鳥がふるえだすように。
 なぜならば――しかし、まったくの話、このことを小声にせよ今日ここで口にしていいものかどうか、筆者には分からない――人は一定の規格にはまるはずのものだという原理が誤っているからだ。つまり、イデーにおいて不動、宣言において絶対無条件、イデオロギーにおいては明白疑いの余地なく、趣味は決定的、言葉と行動とには責任をもち、要するに、その生きかた在りかたのすべてにおいて決定されてしまっているというこうした原理の荒唐無稽さは、近くに寄ってよく見てみれば分かることだ。永遠の未熟さこそ人の本領なのにほかならない。今日われわれの考えていること、感じていることが、われわれのひい孫たちにとって馬鹿げたこととなるのは、もう避けられない事実なのだ。それならば、いっそのこと、時のもたらすこの愚昧化の配給量をきょうここで認めてしまったほうがいいではないか……諸君をこうして早めの決着へと強いる力は、きみたちの考えているように、完全に人間の力だとはいえない。もうまもなくわれわれには分かるときがくる――イデーのため、スタイルのため、テーゼのため、スローガンのため、信仰のために死ぬのは、すでにもっとも重要なことではなくなっているのだ。そういうたぐいの信念をかため、そのなかに閉じこもることなど、重要ではないのだ。しかし、それと別なのは――一歩あとにさがることだ、われわれのまわりに絶えまなく起こるいっさいのことに距離をおいて対することだ。
 後退。筆者には予感がする(しかし、こんなことをもうはっきりと口にのせてもいいのかどうか、筆者は知らない)――まもなく総体的な後退のときが来ると。人の子は、自分たちがその真実の本性に従って自己を表現するものではなく、反対に、いつも他人や環境によって外側から痛ましく不自然に投げかけられる形式のとりこになっているだけなのを理解するのだ。そのため、自分の形式を恐れて、今までそれをたっとび、それに依拠していたのと同じくらい、それを恥じるようになるわけだ。われわれは、まもなく、われわれの人格を、個性を恐れ始めることになろう。なぜなら、少なくとも完全な意味では、それは自分たちのものでないことが明瞭になるからだ。そして、「おれは信じる」「おれは感じる」「おれはこうだ」「おれはああだ」と大声で叫ぶかわりに、われわれは謙遜な口調でこう言うようになるだろう――「おれには信じられる」「おれには感じられる」「おれには話せた、出来た、思われた」と。詩人は自分の歌をさげすむだろう。指導者は命令をくだそうとしておののくだろう。司祭は祭壇を恐れ、また、母は子に原則を教えるにとどまらず、それが子供の息の根をとめることにならぬよう、同じ原則から身を避ける方法も教えるだろう。

   ※太字は出典では傍点