ゴンブローヴィッチ『フェルディドゥルケ』(米川和夫 訳)

 芸術の根本が形式の完成にあることは言うまでもないが、しかし、諸君にかかると――ここにもまたきみたちの根本的な誤謬がむきだしになって見える――芸術の根本は形式において非のうちようのない完璧な作品を作るところにあるなどという話になってしまう。形式の創作というはかり知れない全人間的なプロセスを、諸君は叙事詩とか交響楽の創作に移し変えてしまう。諸君は、われわれの生活における形式の役割がどれほど巨大なものか、ただの一度も正当に感じることができなかった。その道理を人に示すことができなかった。心理学のうちでさえ、諸君は形式に正当な位置を与えられなかったのだ。今までのところ、諸君は、あいも変わらず、感情が、本能が、思考がわれわれの行為を支配すると考え、形式は表面的なつけたり、ただの飾りとしか見ない傾きを持っている。もし寡婦が夫のひつぎに従いながら泣き叫んでいれば、失ったもののかけがえのなさが身にしみて、泣き悲しんでいるのだと、諸君は考える。もし技師とか、医師とか、弁護士が妻や子や友人を殺したとすれば、血を求める本能に負けたと、諸君は見なす。また、だれか政治家などが馬鹿げたことを公言すれば、馬鹿なことを言うと、諸君は思う。しかし、実際はだいぶこれとは趣きがちがう。というのは、人間の本質は人間の自然に従って直接そとに現われるわけではなく、いつもある一定の形式をとって顕現するものだからだ。しかも、その形式やら、このスタイルやら、あの生の様式やらというものは、われわれの内からだけその姿をおもてに現わすのではなしに、外からもまたわれわれに投げかけられる。だからこそ――おなじ一人の人間が、その身にまとった様式しだい、他の人間との関係しだいで、賢くも、愚かにも、悪鬼のようにも、天使のようにも、大人っぽくも、青くさくもなって、外にその姿を見せるのだ。たとえば虫が昼のあいだじゅう餌(え)を求めて休むことなく動きまわるとすれば、われわれ人間は息つくひまもなく形式を追う活動のうちに身を置いているといってよかろう。電車に乗るときも、ものを食べるときも、遊ぶときも、休むときも、また、商売をするときも、われわれはほかの人間たちと生の形式を、様式を争ってやまないのだ――いついかなるときも絶えまなしに形式を求めて、それを味わって喜んでみたり、そのために苦しんでみたり、それに身を合わせるかと思えば、今度はそれを踏みにじって破壊したり、また、それがわれわれを作るままに身をまかせもする、アーメン。
 ああ、形式の絶大なる力よ。そのせいで民族がほろびる。それは戦争を呼び起こす。われわれの内部にわれわれのものではないなにものかを生じさせる。それを軽視していては、諸君は愚を、悪を、犯罪を、ついに理解することができないだろう。形式はわれわれのもっとも小さな反射運動まで支配する。それは集団生活の根底にある。

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