ゴンブローヴィッチ『フェルディドゥルケ』(米川和夫 訳)

学園にとじこめられ、実人生からきり離されているこの犬っころのような小僧どもが罪に汚れていないというのは、まったくの話、本当だったからだ。ソウ、かれらは邪気に満ちていながらも、無邪気だったのだ! 無邪気ではありたくないという欲求のうちで邪気がなかったのだ。腕に女をだきながら、無邪気だった! とっくみあい、なぐりあいの喧嘩をしながら、無邪気だった。詩を朗読するとき、無邪気だった。玉突きをするとき、無邪気だった。食べながら、眠りながら、無邪気だった。無邪気に振舞うとき、無邪気だった。聖なる無邪気さ純潔さによっていつもひっきりなしに脅かされていたわけだ。人の血を流すとき、ぶったりけったりの暴行をはたらくとき、強姦するとき、きたない言葉のありったけを使って罵るとき――こうして、無邪気さ純潔さの罠にかかるまいと、ありとあらゆる試みをしてみせるときにさえ、やはり無邪気で純潔だったのだ。