ゴンブローヴィッチ『フェルディドゥルケ』(米川和夫 訳)

無力な獣の笑い、まるでかかとをくすぐられでもしたような機械的な笑い、足の笑い、それこそもう顔ではなくて、おれの足がヒーヒー笑っているような感じだった。できるだけ早くこんなことにはけりを付け、少年時代とはきっぱり手を切って、意を決して新規まき直しといかなければならない――おれはなにかを始めなければならないのだ! 忘れること、もういいかげんに女学生たちのことは忘れること! 文化おばさんや村娘を愛することから手をひくこと、不愉快な小役人のことを忘れること、足のこと、自分の汚辱にみちた過去のことを忘れること、洟ったれを、青二才を軽蔑すること――だてや冗談ではなしにだんぜんもう大人たちと手を組むこと、アア、いまこそ極端に貴族的なこの態度を身につけること、つまり、軽蔑、軽蔑することだ! これまでのように、未成熟によって他人の未成熟まで呼び起こし誘いだすのではない。イヤ――反対に――成熟したところを自分のなかからひきだして、その成熟によって他人も成熟にむかうよう誘うのだ、魂によって魂に呼びかけるのだ! ? しかし、いったい足のことを忘れていいものだろうか? によって? だが、足はどこだ? 文化おばさんたちの足のことを忘れてもいいのか? そして、それから先は――またどうなるのだ、もしもそれにもかかわらず、そうしたいっさいがっさいのことにもかかわらず、いたるところから芽をふき、脈うって、のび育つ緑、その青さにうちかつことができなかったとしたら(きっとそうそうはうまく行かぬに決まっている)、どうするのだ、もしもおれがかれらの前に成熟した態度で現われたとき、かれらのほうが昔どおりに未成熟な例の態度でおれをあしらったとしたら、おれが賢明さをかかげて向かうとき、かれらが愚昧さをもっておれに立ち返ってくるとすれば? イヤ、イヤ、そんなことなら、最初からこちらでもって未成熟に青くさくやってのけたほうがずっとましだ。おれの賢明さをやつらの愚昧さによって、危殆にひんさせるような真似はしたくない。やつらにたいしては愚昧さによって立ちむかったほうがましではないか! だが、それにしても、いやだ、いやだ、おれはいやだ! やつらと一緒のほうがいい、おれは愛している、好きなんだ、あの木や草の芽ばえが、藪が、緑が、アア!――おれはかれらがまたこのおれをつかまえて、愛の抱擁のうちにだきとってゆくのを感じると、ふたたびあの機械的な足の笑いに身をまかせたあげく、こんな下品な歌までうたい始めた。

   ※太字は出典では傍点