「古詩十九首」(十九首の内一首)

生年百に滿たず、常に千歳(せんざい)の憂ひを懷(いだ)く。
晝(ひる)は短くして夜の長きに苦しむ、何ぞ燭を秉(と)って遊ばざる。
樂しみを爲すは當に時に及ぶべし、何ぞ能く來玆(らいじ)を待たん。愚者は費を愛惜して、但だ後世の嗤ひと爲る。
仙人王子喬(わうしけう)、與(とも)に期を等しくす可きこと難し。


(語釈)
◇千歳の憂ひ=いつまでも絶えることのない心配ごと。死の恐怖をいう。
◇時に及ぶ=時に間に合う。時節をはずさないのをいう。
◇來玆=来年。「玆」は、年。
◇愛惜=「愛」も、惜しむ意。
◇費=費用。金。
◇但だ=ただ。漢文では、「ただし」とは、ほとんど読まない。
◇嗤=物笑い。
◇王子喬=周の霊王の太子で、仙術を学んで天に上ったといわれる。
◇期=寿命をいう。


(通釈)
人の一生は、百歳に達することはまずない。そのはかなさの中で、絶えず死の憂いを持ち続けている。
しかも明かるい昼の間は短くて、暗い夜ばかりがむなしく長い。そんなもったいない時間の浪費に任せないで、ひとつ明かりを手にして楽しく遊ぼうではないか。
人の楽しみごとは、時節をはずさないことが肝要だ。今はしばらくがまんして、来年になったらなどという考え方は通用しない。それにもかかわらず、愚かしい人間は金銭ばかり大事にして、いたずらに後の世の物笑いの種になっている。
我々がどんなに努めてみたところで、仙人の王子喬のように、天に上ってしまうなどということは、到底できることではない。