『伊勢物語』(第二三段/筒井筒)

 昔、田舎わたらひしける人の子ども、井のもとに出でて遊びけるを、大人になりにければ、男も女も恥ぢかはしてありけれど、男は、この女をこそ得めと思ふ。女は、この男をと思ひつつ、親のあはすれども、聞かでなむありける。さて、この隣の男のもとより、かくなむ。
  筒井つの井筒にかけしまろがたけ過ぎにけらしな妹見ざるまに
 女、返し、
  くらべこし振分髪も肩すぎぬ君ならずしてたれかあぐべき
など言ひ言ひて、つひに本意のごとくあひにけり。
 さて、年ごろ経(ふ)るほどに、女、親なく頼りなくなるままに、もろともに言ふかひなくてあらむやはとて、河内の国、高安の郡(こほり)に、行き通ふ所いできにけり。さりけれど、このもとの女、悪(あ)しと思へるけしきもなくて、出だしやりければ、男、異心(ことごころ)ありてかかるにやあらむと思ひ疑ひて、前栽の中に隠れゐて、河内へ往ぬる顔にて見れば、この女、いとよう化粧じて、うち眺めて、
  風吹けば沖つ白波たつた山夜半(よは)にや君がひとり越ゆらむ
とよみけるを聞きて、限りなくかなしと思ひて、河内へも行かずなりにけり。
 まれまれ、かの高安に来て見れば、はじめこそ心にくもつくりけれ、今はうちとけて、手づから飯匙(いひがひ)取りて、笥子(けこ)のうつは物に盛りけるを見て、心憂がりて行かずなりにけり。さりければ、かの女、大和の方を見やりて、
  君があたり見つつををらむ生駒山雲な隠しそ雨は降るとも
と言ひて見出だすに、からうじて、大和人(やまとびと)、「来む。」と言へり。喜びて待つに、たびたび過ぎぬれば、
  君来むと言ひし夜ごとに過ぎぬれば頼まぬものの恋ひつつぞ経る
と言ひけれど、男住まずなりにけり。


(解説)
◆筒井つ=丸く掘った井戸。「つ」は未詳。
◆井筒=筒の形をした井戸枠。
◆振分髪=左右に分けて肩のあたりで切りそろえた、子ども(男女とも)の髪型。
◆あぐ=髪上げをする。女性の成人式で、大人の髪型にすること。
◆頼り=経済的な生活のよりどころ。
◆風吹けば沖つ白波=掛詞によって「龍田山」を導く序詞。
◆飯匙=しゃもじ。
◆笥子=飯を盛る椀。
◆男住まず=男が女を訪れないこと。男が女の家に通い、結婚生活をすることを、女のもとに「住む」といった。


(現代語訳)
 昔、地方をまわって生計を立てて暮らしていた人の子どもたちが、井戸の所に出てきて遊んでいたが、やがて大人になったので、男も女も恥じらい合っていた。そうではあるが、男はこの女と結婚したいと思い、女もこの男を夫にと思い続け、親が結婚を勧めても、言うことを聞かないでいた。そうしていたある日、この隣の男のもとから、次のような和歌が届けられた。
  筒井を囲う井筒と高さ比べをしていた私の背丈は、恋しいあなたと会わずにいる間にもう井筒よりもずっと高くなってしまった。
 女の返歌は、
  あなたと長さ比べをしていた私の振分髪ももう肩のあたりを過ぎるほど伸びてしまいました。あなた以外の誰のために髪上げをいたしましょうか。
というものだった。そのようにお互いの気持ちを打ち明け合っていき、ついに念願通り二人は結婚したのであった。
 そうして、年月を経ていく間に、女の親が亡くなった。生活が不如意になっていくに従い、男は女と一緒にみじめな状態になってはいられないと思って、河内の国高安郡に、新たに通っていく先を設けたのだが、このもとの妻は、男を恨む様子もなく、河内へ送り出してやったので、男は、女が浮気をしているからそういう態度をとるのであろうと疑って、庭の植木のなかに隠れて、河内へ行ったふりをして見ていると、この女は、きれいに化粧をして、ぼんやりと外を眺めて、
  風が吹くと沖に波が立つ。その「たつ」を名にもつ龍田山を、この夜更けにあの人がたったひとりで越えていっているのだろうか。
と歌を詠んだのを聞いて、男は女を限りなくいとしいと思って、河内へも行かなくなってしまった。
 たまに、あの高安に来てみると、そこの女ははじめのうちこそ奥ゆかしい様子にとりつくろっていたが、今は気を許して、みずからしゃもじを手にとって、椀に飯を盛りつけるようになっていた。男は、それを見て、いやけがさして行かなくなってしまった。そこで、女は男の住む大和のほうを見て、
  あなたがいるほうをずっと見ていたい。たとえ雨が降っても、雲よ生駒山を隠さないで。
といって外を眺めていると、やっとのこで大和に住む男が高安に来るといった。よろこんで待っているのに、何度も約束を破って男が来なかったので、高安の女は、
  あなたが来ると言った夜が幾晩もむなしく過ぎてしまったので、あてにならないと思いながらも、私はずっとあなたを恋い慕って過ごしています。
と歌を詠んだが、男が訪れることはなかった。