『荀子』(性悪)

夫れ人は性質の美有りて、心(こころ)辨知(べんち)すと雖も、必ず將に賢師を求めて之れに事(つか)へ、良友を擇(えら)びて之れを友とせんとす。今(いま)不善人(ふぜんにん)と處(を)れば、則ち聞く所の者は欺誣詐僞(ぎふさぎ)なり。見る所の者は汙漫淫邪貪利(をまんいんじゃたんり)の行ひなり。身(み)且に刑戮(けいりく)を加へられんとして、自らは知らざる者は、靡(び)然らしむればなり。傳に曰はく、其の子を知らざれば、其の友を視よ。其の君を知らざれば、其の左右を視よと。靡のみ、靡のみ。


(語釈)
◇性質の美有り=生まれつきがりっぱなこと。
◇心辨知=是非善悪の判断が立つこと。
◇擇=選択する。
◇聞く所の者=「者」は、「こと」の意。
◇欺誣=あざむぎしいる。うそ。
◇詐僞=いつわり。
◇汙漫=けがらわしいでたらめ。
◇淫邪=よこしま。「淫」は、度を過ごした場合にいう。
◇貪利=貪ること。
◇刑戮=刑罰。「戮」は、ころすこと。
◇自らは知らざる=情勢はそうなっているのに、当人の自分だけは気がつかないでいること。
◇靡=付き従うこと。風俗とか習慣とか、左右にあるものに引かれて、自然にそっちへ向かうこと。
◇傳=昔の書物。


(通釈)
いったい人間というものは、どんなに生まれつきがりっぱであって、その結果として物事の道理が十分にわかる場合であっても、必ずりっぱな先生をさがして、これについて学び、良い友達をえらんでこれと交わろうとするものである。それなのに、もしも良からぬ人と一緒につき合っておると、耳にはいるのはうそいつわりのことであり、目に映るのは、でたらめやよこしま、はては貪欲な行ないである。そういった中におると、自分は今にも刑罰を受けようとしているのに、自分ではそれを一向に気がつかないでいるようになってしまう。それはどうしてかというと、外でもない、なれっこになってしまった結果である。昔の本に、「ある人の子について分からなかったら、何よりもその子のつき合っている友達について観察するがよい。もしまた、ある人君について分からなかったら、その近臣たちについて観察するがよい。」とあるが、まことにその通りで、何事によらず、平生身のまわりに付き従うことが一切を決定してしまうかぎになるものである。