『孟子』(離婁上)

曾子曾セキ(「セキ」は、上部「析」+下部「日」)を養ふに、必ず酒肉有り。將に徹せんとするや、必ず與(あた)ふる所を請ふ。餘り有りやと問へば、必ず有りといふ。曾セキ死す。曾元(そうげん)曾子を養ふに、必ず酒肉有り。將に徹せんとするや、與ふる所を請はず。餘り有りやと問へば、亡しといふ。將に以て復た進めんとするなり。此れ所謂口體(こうたい)を養ふ者なり。曾子の若(ごと)きは、則ち志を養ふと謂ふ可きなり。親に事(つか)ふること曾子の若き者は、可なり。


(語釈)
曾子=曽参。孔子の弟子。親孝行で知られている。
◇曾セキ=曽子の父。
◇酒肉有り=相当なごちそうを供えたこと。
◇徹=取り下げること。
◇與ふる所を請ふ=誰にやったらよいかと尋ねたこと。
◇曾元=曽子の子。
◇亡=「無」と同じ。
◇復た進めん=次の機会にもう一度食べさせようとすること。
◇口體を養ふ=食欲をみたし、肉体を養うこと。
◇志を養ふ=志望を遂げさせること。


(通釈)
曽参が父の曽セキに孝養をつくしたやり方を見ると、いつもかならず相当なごちそうを供えた。そして、いよいよ膳を下げる段になると、いつでも「誰にやりましょうか」と尋ねた。また、もし父親の方で「まだ残りがあるか」ときいた場合には、きまって「まだございます」と答えるのが常であった。曽セキが死んだ。こんどは曽元が父の曽参に孝養をつくす番になったが、そのやり方を見ると、これもまた常に相当なごちそうを供えた。ただ、いよいよ膳を下げる段になって、「誰にやりましょうか」と尋ねることはしなかった。また、曽参が、「まだ残りがあるか」ときくと、いつでも「もうございません」と答えた。それは、後刻もう一度食べさせたいと考えたからである。この曽元のやり方は、言わば食欲をみたし肉体を養うといった種類のものに過ぎない。これに反して曽参のようなやり方は、親の心を満足させるものだということができる。親孝行ということが、曽参のようにできるならば、これは結構だといってよろしかろう。