『竹取物語』

 八月十五日ばかりの月にいでゐて、かぐや姫、いといたく泣きたまふ。人目も、今はつつみたまはず泣きたまふ。これを見て、親どもも、「何事ぞ。」と問ひ騒ぐ。かぐや姫、泣く泣く言ふ、「さきざきも申さむと思ひしかども、かならず心惑はしたまはむものぞと思ひて、今まで過ごしはべりつるなり。さのみやはとて、うち出ではべりぬるぞ。おのが身は、この国の人にもあらず。月の都の人なり。それをなむ、昔の契りありけるによりてなむ、この世界にはまうで来たりける。今は、帰るべきになりにければ、この月の十五日に、かの元の国より、迎へに人々まうで来むず。さらずまかりぬべければ、思し嘆かむが悲しきことを、この春より、思ひ嘆きはべるなり。」と言ひて、いみじく泣くを、翁、「こは、なでふことをのたまふぞ。竹の中より見つけきこえたりしかど、菜種の大きさおはせしを、わが丈立ち並ぶまで養ひたてまつりたるわが子を、何人(なにびと)か迎へきこえむ。まさに許さむや。」と言ひて、「我こそ死なめ。」とて泣きののしること、いと堪へがたげなり。
 かぐや姫のいはく、「月の都の人にて父母(ちちはは)あり。かた時の間とて、かの国よりまうで来しかども、かくこの国にはあまたの年を経ぬるになむありける。かの国の父母のこともおぼえず。ここには、かく久しく遊びきこえて、慣らひたてまつれり。いみじからむ心地もせず。悲しくのみある。されど、おのが心ならずまかりなむとする。」と言ひて、もろともにいみじう泣く。使はるる人も、年ごろ慣らひて、立ち別れなむことを、心ばへなどあてやかにうつくしかりつることを見慣らひて、恋しからむことの堪へがたく、湯水飲まれず、同じ心に嘆かしがりけり。


(解説)
◆昔の契り=前世の宿縁。前世の行いによって、現世のあり方が決定され、現世の行いによって、後世のそれが決まるという、仏教における、三世因果の思想。
◆この世界にはまうで来たりける=「この世界」は地上界をさす。謙譲語「まうづ」によって、地上界を自分の故郷である月世界より高めている。
◆さらず=「避らず」で、避けられずにの意。
◆菜種の大きさ=「菜種」は芥子菜の種子。『法華経』の提婆達多品(だいばだったほん)に「芥子の如き許りも、これ菩薩の、身命を捨てし処に非ざること有ることなし」とある。
◆かた時の間・あまたの年=人間世界の何年間が、月世界ではわずかの期間になる。浦島太郎伝説と同じ。


(現代語訳)
 八月十五日も近いころの月の夜に、縁側に出て座り、かぐや姫は、ひどくお泣きになる。今は人目もかまわずにお泣きになる。これを見て親たち(翁・媼)も「どうしたのです。」と尋ねておろおろする。かぐや姫が、泣く泣く、「前々から申し上げようと思っていましたが、そうするとかならずやお心を乱してしまうと思って、今まで申し上げずに過ごしてきたのです。それでもそのように隠してばかりもいられませんので、こうして申し上げるのです。私は、この世界の者ではありません。月の都の人間です。そうではありますが、前世からの因縁があったために、この世界にやって来たのです。今は、もう帰らなければならない時になりましたので、この月の十五日に、私が生まれた国から、私を迎えに人々がやって来ましょう。かならず帰らなければならないので、お嘆きになるのが悲しくて、この春からずっと嘆いているのでございます。」と言って、ひどく泣くので、、翁は、「これは何ということをおっしゃるのか。竹のなかから見つけてさしあげたとはいえ、菜種の大きさでいらっしゃったのを、私の背丈に並ぶようになるまでお育て申し上げたわが子を、いったいどんな連中が迎えに来ようというのか。絶対に許さない。」といい、「私のほうこそ先に死んでしまいたい。」といって泣きわめくさまは、まったく堪えがたいことだといった様子である。
 かぐや姫は、「私には、月の都に住む父母がいます。少しの間のことと思って、あちらの世界からやってまいりましたが、こうしてこの世界に多くの年月を送ることになって、今は、あちらの世界の父母のことも思い出しません。こうして長く過ごして、こちらの世界に、すっかり慣れ親しんでしまいました。月の世界に帰ることに、うれしい気持ちもせず、悲しいばかりです。そうではありますが、思い通りにはならず、しかたなく帰ろうとするのです。」と言って、翁とともにひどく涙を流す。使用人たちも、長い間かぐや姫に慣れ親しんで、人柄が上品でやさしいことなどをよくわかっていたので、かぐや姫がいなくなってしまうと恋しく思われてならないであろうと堪えがたく、湯水も飲めずに、翁たちと同じ気持ちで、姫と別れることを嘆き悲しんだのだった。