川上弘美「溺レる」
少し前から、逃げている。
一人で逃げているのではない、二人して逃げているのである。
逃げるつもりはぜんぜんなかった、逃げている今だって、どうして逃げているのかすぐにわからなくなってしまう、しかしいったん逃げはじめてしまったので、逃げているのである。
「モウリさん何から逃げてるの」逃げはじめのころに聞いたことがあった。モウリさんは首を少しかしげて、
「まあ、いろんなものからね」と答えたのだった。「中ではとりわけ、リフジンなものから逃げてるということでしょうかねえ」
「リフジンなものですか」ぽかんと口を開けてモウリさんを仰ぎ見ると、モウリさんは照れたように目を細め、何回か頷いた。