白井喬二「富士に立つ影 裾野編 愛鷹山史話」

 富士の裾野のひと目に見わたせる愛鷹山の頂きは海抜千百八十尺、江戸からざっと三十里だが、この山懐には猿がいた、猪がいた、高さのわりあいに噞岨で見た目より谷間が深かった。これを連れ立って裾野の方へ迫って越前ガ岳、呼子ガ岳、鋸ガ岳、位牌ガ岳、黒ガ岳などの友峰が折からの晩春の霞雲の中に鼎を置いたような恰好に駿東の空高々とそびえていたのである。
 この愛鷹山の中腹に蔦成権現という小さなほこらがあった。ここまではよく猿が出て来た。この蔦成権現には駿東郡水野出羽守領内の家臣どもが巻狩のたびに献納した武運額が鈴なりのように懸かっていた。このほこらのところから俗に小足柄といった山の鼻まで草開きの道が一本羊腸とついていたが、それから先きは道がパッタリなくなって樵道を探さなければ到底分け入ることが出来なかった。この辺になると猿ばかりでなく猪も時々姿を見せたが、猪は猿より従順でさっさと向こうの方から姿を隠してしまうということである。