稲垣足穂「星を売る店」

 日が山の端(は)に隠れると、港の街には清らかな夕べがやってきた。私は、ワイシャツを取り変え、先日買ったすみれ色のバウを結んで外へ出た。
 青々と繁ったプラタナスがフィルムの両はしの孔のようにならんでいる山本通りに差しかかると、海の方から、夕凪時にはめずらしく涼しい風が吹き上げてくる。教会の隣りのテニスコートでは、グリーンやピンクの子供らがバネ仕掛の人形のように縄跳びしている。樅の梢ごしに見える蔦をからませたヴェランダからはピアノのワルツが洩れてくる。「そうだ」と気がついて、私は右ポケットに手を入れ、「もういっぺん練習してみよう」と、指先をすばやく働かして、「ABC」の紙箱の中から、巻タバコを一本抜き出そうとした。