森田草平「煤煙」

 日が落ちて、空模様の怪しく成つた頃である。東海道線の下り列車は、途中で故障を生じたので、一時間余りも後れて岐阜駅へ着いた。車掌が「ぎふ、ぎふ」と呼びながら、一つ宛車輛の戸を開けて行く。其後から、乗客は零れる様にプラツトフォームへ降りて、先を争つて線路の上に架けた橋を渡らうとした。
 小島要吉は三年振りで此停車場に立つた。今頃故国の土を踏まうとは昨日迄も思つて居なかつた。去年の夏大学を卒業した時でさへ、帰省して見やうなぞと云ふこゝろは起らなかつた。少さい時から都へ出たが、いろ/\因由が有つて、故郷へは帰らない。一生帰りたくない。天が下に自分の生国といふものが無ければ可いと思ふことさへあつた。それが今度止むを得ない事情で、突然帰つて来て、早くも聞慣れた土音を耳にし、見慣れた風俗を眼にすると、幾許永く他国に放浪して、自分だけは他所の人間に成済したつもりで居ても、矢張此処の土と水とで出来た人間だなと云ふ感じが俄に強く成つた。