幸田露伴『五重塔』

 上りつめたる第五層の戸を押明けて今しもぬつと十兵衛半身あらはせば、礫(こいし)を投ぐるが如き暴雨の眼も明けさせず面(おもて)を打ち、一ツ残りし耳までも扯断(ちぎ)らむばかりに猛風の呼吸(いき)さへさせず吹きかくるに、思はず一足退(しりぞ)きしが屈せず奮つて立出でつ、欄を握(つか)むで屹(きつ)と睥(にら)めば天(そら)は五月(さつき)の闇より黒く、ただ囂々(ごうごう)たる風の音のみ宇宙に充て物騒がしく、さしも堅固の塔なれど虚空に高く聳えたれば、どうどうどつと風の来る度ゆらめき動きて、荒浪の上に揉まるる棚なし小舟(おぶね)のあはや傾覆(くつがえ)らむ風情、さすが覚悟を極めたりしもまた今更におもはれて、一期(いちご)の大事(だいじ)死生の岐路(ちまた)と八万四千の身の毛堅(よだ)たせ牙(きば)咬定(かみし)めて眼(まなこ)を睜(みは)り、いざその時はと手にして来し六分鑿(のみ)の柄(え)忘るるばかり引握(ひつつか)むでぞ、天命を静かに待つ〔後略〕