高山樗牛『瀧口入道』

 世に畏るべき敵に遇はざりし瀧口も、恋てふ魔神には引く弓もなきに呆れはてぬ。無念と思へば心愈々乱れ、心愈々乱るるに随(つ)れて、乱脈打てる胸の中に迷ひの雲は愈々拡がり、果は狂気の如くいらちて、時ならぬ鳴弦の響、剣撃の声に胸中の渾沌を清(すま)さんと務むれども、心茲(ここ)にあらざれば見れども見えず、聞けども聞えず、命の蔭に蹲踞(うづくま)る一念の恋は、玉の緒ならで断たん術もなし。
 誠や、恋に迷へる者は猶ほ底なき泥中に陥れるが如し。一寸(いつすん)上(うへ)に浮ばんとするは、一寸下に沈むなり、一尺岸に上(のぼ)らんとするは、一尺底に下るなり、所詮自ら掘れる墳墓に埋(うも)るる運命は、悶え苦みて些(いささか)の益もなし。されば悟れるとは己れが迷を知ることにして、そを脱せるの謂にはあらず。哀れ、恋の鴆毒(ちんどく)を渣(かす)も残さず飲み干せる瀧口は、只々坐して致命の時を待つの外なからん。