斎藤美奈子「バーチャルな語尾」

 あら、ごめんなさい。でもフォアグラを選ぶなんてあなたらしくないわ。ガチョウの魂はのぞいたの? かわいそうに、それはつらかったはずよ。あなたはきっと、あえて目をそむけたのね。


 これは、たまたま手元にあった最新のイギリスの通俗小説の日本語訳の一節である。
 あなた、これを読んでおかしいと思わなくて? だってこれ、いまの日本語じゃないんですもの。こんなしゃべり方をする女、いまの日本にはいなくてよ。
「あ、ごめん。しっかし、フォアグラを選ぶか、ふつう」
 とか、そんな感じだと思うわ。そうなの。これはメディアの中にしかないバーチャルな日本語なのよ。そりゃあ明治の女学生は語尾が「てよ」や「だわ」の「てよだわ言葉」でしゃべっていたかもしれないわ。でも、いまの言語感覚でいくと、これは「おねえ言葉」よね。バーチャルな日本語だから、バーチャルな女性に愛されているのだわ。こんな日本語を読むと、だから私は『トッツィー』に出てきた女装姿のダスティン・ホフマンを思い出すわ。
 しかし、思えばメディアの中だけで流通する日本語は、女言葉以外にもいろいろある。
 たとえば、老人が話す「わしゃ……じゃよ」という主語と語尾はどうじゃろか。そんな風にしゃべる古老が本当におるのじゃろうか。階級的な訛りだか、地方語だかを表現するときの「おら……しただ」はおかしいと思わねえだか。おらは聞いたことねえだがな。
 思い出してみると、こうした日本語にわれわれがはじめて出会ったのは、翻訳物のお伽噺や児童文学の中でであった。村岡花子訳の『赤毛のアン』や竹山道雄訳の『ハイジ』はこんな人々ばかりである。幼児期の刷り込みはおそろしい。子ども向けにキャラを際立たせる必要があったにしても、五十代のFBI行動分析官が『赤毛のアン』の語調でしゃべっていると思えば、そのおかしさがわかるってものだ。翻訳物だけの話でもない。私自身、自分の出ているインタビュー記事で「……だわ」としゃべっている自分を目にして驚愕することがある。
 と、ここまで来て、同じ『論座』にダスティン・ホフマンへのインタビューが載っているのを発見した(伊藤千尋イラクの人々が何人殺されたのか、我々は知らされていない」)。
トッツィー』ではなく、地のダスティン・ホフマンいわく。


  なぜ俳優を志したかというと……ほかに選択肢がなかったからさ。


  こうは思わないか? このインタビューが始まってから考えたことをすべてそのまま書き留めなければならないとしたら、とても無理だろう?


 これもかなりバーチャルな日本語だとは思わないか? まるでCNNの吹き替えみたいだ。でなきゃ村上春樹の小説さ。ほんとにそんな口調だったのかい? 興味深いな。