外山滋比古『考えるとはどういうことか』

 もともと、知識と経験は相性がよくありません。放っておくと、この二つはなかなか手を結ばない。それを結びつけて新しいものを生み出すには、何らかの触媒が必要でしょう。化学の世界では、そのままでは化合しないAとBという物質があるとして、Cという触媒を使うことで両者を反応させる手法が確立しています。化合したものの中にはCが存在しないのです。
 そのままでは結びつかない、相性の悪い知識と経験を化合させるのに必要な触媒は何でしょうか。
 それは、人間の思考力にほかなりません。別々に存在している知識と経験に創造的な思考を加えることで、新しい価値を生み出す。私はそれを「触媒思考」と呼んでいます。これがなければ、いくら知識や経験だけを積んでも、生きた知恵にはなりません。
 この触媒思考を小規模ながらやっているのが川柳だと思います。川柳は、実際にあった出来事(経験)をそのまま書いたものでもなければ、既存の知識を右から左に伝えたものでもありません。その両方を自分の頭の中で触媒的に化合させた結果、「隣の花は赤い」といった新しい化合物=発見が生まれるのです。
 こうしたケースは、俳句にもないわけではありません。たとえば滝瓢水という江戸中期の俳人は、知識と経験を見事に結びつけた句を数多く残しました。彼はもともと播州(現在の兵庫県)の富裕な商家に生まれましたが、やがて家が落ちぶれて経済的に逼迫し、生活するのにかなりの苦労を味わいました。その経験と知見を結び合わせる触媒をもっていたようです。
 たとえば、あるとき旅の僧が瓢水を訪ねてきました。しかし瓢水は不在で、家の者に聞くと「風邪をこじらせたので薬を買いに出かけた」という。それを聞いた僧は、「悟りを開いたといわれるが、瓢水も命が惜しくなられたか」と嫌みをいって帰ります。帰宅してその話を聞いた瓢水は、こんな句を詠みました。
   浜までは 海女も蓑着る 時雨かな
 海女はどうせ海に入ってずぶ濡れになるのに、雨が降っていれば蓑を着て浜まで行く。そうやってわが身をいとおしむのは床しい。美しい。自分も死ぬまでは立派に生きたいのだ――という気持ちを、この句に込めたのです。生きていくための知恵として、ことわざに匹敵する力を持った俳句だといえるのではないでしょうか。
  蔵売って 日当たりのよき 牡丹かな
 これも瓢水の句です。破産して蔵を売らざるを得なくなったが、蔵がなくなったおかげで、いままでは日陰にあった牡丹に日が当たるようになった。財産を失うという辛い経験も、一方でいままで気づかなかった新しい価値をもたらしてくれる、ということです。知識一辺倒の人間からは出てこない深い洞察がそこにはあります。知識と経験の化合には、何ともやわらかくて温かみのある世界が生み出されるのです。