白川静『孔子伝』

 儒教は、中国における古代的な意識形態のすべてを含んで、その上に成立した。伝統は過去のすべてを包み、しかも新しい歴史の可能性を生み出す場であるから、それはいわば多の統一の上になり立つ。儒の源流として考えられる古代的な伝承は、まことに雑多である。その精神的な系譜は、おそらくこの民族の、過去の体験のすべてに通じていよう。孔子は、このような諸伝承のもつ意味を、その極限にまで追求しようとした。詩において、楽において、また礼において、その追求が試みられたことは、すでにみてきた通りである。そしてその統一の場として、仁を見出したのである。過去のあらゆる精神的な遺産は、ここにおいて規範的なものにまで高められる。しかも孔子は、そのすべてを伝統の創始者としての周公に帰した。そして孔子自身は、みずからを「述べて作らざる」ものと規定する。孔子は、そのような伝統の価値体系である「文」の、祖述者たることに甘んじようとする。しかし実は、このように無主体的な主体の自覚のうちにこそ、創造の秘密があったのである。伝統は運動をもつものでなければならない。運動は、原点への回帰を通じて、その歴史的可能性を確かめる。その回帰と創造の限りない運動の上に、伝統は生きてゆくのである。儒教はそののち二千数百年にわたって、この国の伝統を形成した。そしていくたびか新しい自己運動を展開したが、そのような運動の方式は、すでに孔子において設定されていたものであった。孔子が不朽であるのは、このような伝統の樹立者としてである。