中江兆民『一年有半』

 わが日本古(いにしえ)より今に至るまで哲学なし。本居篤胤の徒は古陵を探り、古辞を修むる一種の考古家に過ぎず、天地性命の理(り)に至(いたつ)ては瞢焉(ぼうえん)たり。仁斎徂徠の徒、経説につき新意を出(いだ)せしことあるも、要(よう)、経学者たるのみ。ただ仏教僧中(ちゆう)創意を発して、開山作仏(さくぶつ)の功を遂げたるものなきにあらざるも、これ終(つい)に宗教家範囲の事にて、純然たる哲学にあらず。近日は加藤某(それ)、井上某、自(みずか)ら標榜して哲学家と為し、世人もまたあるいはこれを許すといへども、その実は己れが学習せし所の泰西某々(たれそれ)の論説をそのままに輸入し、いはゆる崑崙に箇(こ)の棗を呑めるもの、哲学者と称するに足らず。それ哲学の効いまだ必ずしも人耳目(じんじもく)に較著なるものにあらず、即ち貿易の順逆、金融の緩慢、工商業の振不振(しんふしん)等、哲学において何の関係なきに似たるも、そもそも国に哲学なき、あたかも床の間に懸物なきが如く、その国の品位を劣にするは免るべからず。カントやデカルトや実に独仏の誇なり、二国床の間の懸物なり、二国人民の品位において自(おのずか)ら関係なきを得ず、これ閑是非(かんぜひ)にして閑是非にあらず。哲学なき人民は、何事を為すも深遠の意なくして、浅薄を免れず。